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歴史語り一人生放送予告

何の問題も無ければ、火曜日の夜に一人放送します
テーマは「神聖ローマの変人皇帝フリードリヒ二世とプロイセンの父ヘルマン・フォン・ザルツァ」
第五回十字軍がメインですが、1~4回十字軍の内容を知らない人はとりあえず以下をチェックするといいかも

読み辛いかもですがw;


 はいこんばんわー 匈奴の人の歴史豆知識ニコニコ出張版の拡張補強版です。今回のテーマは十字軍。うん、多分本家では色々ヤバいから出来ないと思われるネタなんでね。予告では第五回十字軍って言っておいたんですけども、第一回と第三回を先に説明しておいた方が分かりよいかと思ったので、とりあえず今回は第一回から第三回十字軍についてつらつらーと。
 前半はイスラム側メイン、後半はキリスト教側メインです。

 とりあえず十字軍の目的ってのは知ってる人が多いと思いますけどキリスト教徒による聖地イェルサレムの回復、ですね。今もパレスチナとイスラエルがややっこしいあの辺です。地中海の東側、トルコの南らへんね。現代のパレスチナ問題については迂闊な事が言えないので、気になる人は自分で調べて下さい。後、調べるときは二次元と三次元は分けて考えようね。隊長との約束だ。
 ちなみにキリスト教徒の領土を回復するぞ!って言って東へ行ったのが十字軍で、西に行ったのがスペインのレコンキスタと考えても問題ない。エジプトもシリアもイベリアも元はローマの領土だったからね。

 話を戻して時は十一世紀末。当時、東ローマ帝国、普通この時期の東ローマはビザンツっていうんだけども、そのビザンツがトルコの脅威に晒されていました。大航海時代の初期に地中海を席巻するのはオスマン=トルコだけども、それ以前のセルジューク=トルコっていう国です。

 でだ、ビザンツがトルコさん強ぇー、怖ぇー、ってなったから、教皇にちょっと傭兵貸してくれって言った。しかし教皇は大々的に演説をぶっちゃって、騎士やら民衆やらがたくさん集まっておしあいへしあいしながら、食料とか現地調達しながらイェルサレムを目指したのが第一回十字軍。イスラム教徒のことを西洋人はサラセンて呼んだんだけど、サラセンから聖地を奪い返せ!ってなったわけ。本当はイスラム教徒、つまりムスリムは、ユダヤ教徒やキリスト教徒を「啓典の民」として扱ってて、別にイスラム圏でキリスト教やユダヤ教を信じても税金さえ払えば問題なかったし、巡礼も許可されてたんだけどね。
 詳しい経緯は省略するけども、結構むごかったらしい。当時クロスボウ、まぁ、日本で言うボウガンだけど、それは残虐な兵器だってんで使用が禁止されてたんだけども、十字軍ではバカスカ撃ってたらしいね。
 で、1099年、イェルサレムがキリスト教徒の手に落ちます。当時、イェルサレムにはムスリムの他にもユダヤ教徒とか東方正教のキリスト教徒とかもいたんだけど、皆殺し
 聖地が血の海に沈んだ。これはイスラム側だけじゃなくてキリスト教徒側も年代記に書いてることだから本当らしい。

 まぁ、んなこたないと思うけどこれを聞いてキリスト教を嫌いにならないように。まだまだ話は続く。

 結果として、地中海の東岸、パレスチナ地方に十字軍国家と呼ばれる西洋人の国が出来ました。イェルサレム王国、アンティオキア侯国、トリポリ伯国、エデッサ伯国の四つだ。とりあえずイェルサレム王国の名前だけ覚えておけばいいと思う。

 ひとまずキリスト教側は置いておいて、やられっぱなしのイスラム側。
 当時、イスラム側はカリフ、スルタン、アタベクっていう三種類の権力者がいました。日本の戦国時代にたとえると、カリフが天皇、スルタンが将軍、アタベクが戦国大名に相当する。カリフはアラブ人だったんだけど、スルタンはトルコ人でアタベクもトルコ人が多かった。で、ガーズィー・グムシュティギンとか、カルブーカとかそういう大名、アタベク達が十字軍に対して抵抗をするんだけど、敵を止めることは出来ても、失った領土を回復することは出来なかった。
 と、いうのも、当時のイスラム世界は内紛だらけで、その上主戦力だったトルコ騎兵たちはだーっと来て、だーっと殺して、だーっと略奪して、だーっと返っていくことが多かったからだ。

 この状況に、一人のトルコ人アタベクが立ち上がる。名前はイマードゥッディーン・ザンギー・イブン=アクソンコル。つまり、アクソンコルの息子ザンギー、字をイマードゥッディーン。イマードゥッディーンていうのは信仰の柱っていう意味だ。紅い髪に青い目、髭を生やした典型的なトルコ人武将で、酒飲みだったらしい。俺は勝手にイスラムの信長って呼んでるけど。
 彼の生い立ちも色々とおもしろいんだけど、とりあえず重要なのは、彼はこれまでのトルコ人武将と違って、兵士達に軍規を厳格に守らせて、耕された畑に踏みいることもなかったし、命令すれば他人の豪華な館を接収して好きに使えるにもかかわらず、町の外に寝泊まりしたってことだ。部下の面倒もよく見て、自分の領地の住民たちのことも気に掛けていたらしい。
 ただ、豪快な性格でもあって、割と無茶もするし、無理で道理を押し込めようとすることもあった。
 ザンギーは俺が一番好きなイスラム武将の一人なんだけども、まぁ、メインはまた後で出てくるサラディンとリチャード一世だから、彼の戦いは簡単に語ろう。
 フランクとの最初の戦いの時、ザンギーはバーリン砦を包囲した、それこそネズミの一匹抜け出せないほどに、だ。あ、ムスリムは侵略してきたキリスト教徒達をフランクと呼んでました。しかしザンギーはその場から動いていないにもかかわらず、各地の情報を手に入れられていた。何故か?実は、ザンギーは伝書鳩のネットワークを構築していて、ペルシアのイスファハーンや、イラクのバグダード、あるいは敵の領地であるイェルサレムで何が起こっているかを瞬時に把握出来るシステムを作り上げていたからだ
 一方、フランクは情報伝達と言えば早馬だったので、砦の外で何が起こっているかさっぱり分からなかった。
 突然、ザンギーからフランクに講和の申し出が来た「五万ディナールの身代金を払って砦から立ち退けば、兵士達の安全は保証する」という内容だ。こんな簡単な条件で命が助かるのか、と、フランク達は喜んでその条件をのんで砦を去った。が、彼らはすぐにザンギーが自分たちより一枚上手だったことに気付く。実は、篭城しているフランクを助けようと、強力な援軍がすぐそこまで来ていたからだ。情報戦は、ザンギーが得意とするところの一つだった。
 その点、やっぱり彼はこれまでの武勇のみを誇ったトルコ人武将とは違っていたわけだ。今度は防御側に回ったシャイザルっていう都市の攻防戦では、カリフやいろんなところのアタベクに援軍よこせっていう手紙を書きまくった。実は、援軍がくるような当てなんて無かったんだけども、ザンギーが援軍を要請しているっていう噂を聞いたフランクはいつ援軍がくるかとビビったわけね。
 一方で手持ち戦力が少なかったザンギーはひたすらゲリラ戦を仕掛けた。先祖がモンゴルと同じく遊牧民であるトルコ人は、馬上での弓矢の扱いに優れていたので、フランクは手を焼きまくった。さらにもう一方で、ザンギーは敵に対しても虚報を流して、仲間割れを誘う。
 この時のフランクの指揮官はビザンツ皇帝と、ジョスランていう名前の騎士とレイモンていう名前の騎士だったんだけど、ザンギーの偽の情報に騙されてやる気をなくしたジョスランとレイモンは、皇帝が指揮をとっている最中にさいころで遊んでいたらしい。
 双方殆ど損害は出なかったんだけど、フランクはもうにっちもさっちも行かなくなって、ジョスランとレイモンのやる気のなさにブチ切れた皇帝は、ジョスランとレイモンの馬をとりあげて、彼らを歩かせて撤退していった
 この勝利は、イスラム世界を大きく勇気づけることになって、ここから反撃の狼煙が上がったと言っても過言じゃない
 そして、ザンギーはついに十字軍国家の一角だったエデッサを落とす!
 イスラム世界は彼を称え、ついにイェルサレム奪回に向けた戦いが始まるのではないか、と噂した。しかし……エデッサを落としたそのすぐ後、彼は子飼いの部下に殺されてしまう。こんなところも信長っぽい。

 さて、ここで勝手に俺がイスラムの秀吉と呼んでるヌールッディーン=マフムードの登場になる。まぁ、ここまで言えば分かる人は分かると思うけど、家康はサラディンね。ただまぁ、三人の上下関係とか血縁関係とか当てはめると、信長、秀吉、家康にそのまま当てはめるのも無理があるんだけど、大体のイメージはそんな感じ。ヌールッディーンっていうのは信仰の光っていう意味だ。ザンギーの息子だった彼は、背が高くてイケメンだったらしい。
 でもまぁ、俺は嫌いじゃないけど好きでもないので彼についての詳しいことは飛ばす。

 さて、エデッサの陥落におどろいたキリスト教徒達。神聖ローマのところのコンラート三世とフランス兄ちゃんのところのルイ七世が第二回十字軍を起こします。で、一時期はエデッサを再度占領するんだけども、特に語ることもないままヌールッディーンに追い返されちゃう。

 ここで十字軍国家はエジプトに目標を変えた。当時エジプトは、バグダッドのカリフとは別に、独自にシーア派のカリフを立てていた。まぁ、南北朝みたいなもんだ。で、エジプトの宰相が、ヌールッディーンに助けを求めてきた。
 スンニ派で、バグダッドのカリフとの関係を重視してきたヌールッディーンにしてみればシーア派を助ける義理は無かったんだけど、十字軍国家が大穀倉地帯であるエジプトを占領して力を付けるのはまずいってんで、アサドゥッディーン=シールクーフっていう武将と、彼の甥をエジプトに派遣した。シールクーフっていうのはペルシア語で山のライオンていう意味で、字のアサドゥッディーンていうのも信仰の獅子っていう意味だ。
 キレやすい人ではあったけども、戦いにおいては無双、戦局を見誤ることはなく、陽気で兵士達と寝食を共にし、大食いで酒飲みだった。まぁ、かつて仕えていたザンギーによく似たんだろう、兵士達にも人気があった。ヌールッディーンは敬虔なイスラム教徒で、シールクーフとは正反対の性格だったんだけど、不思議とこの二人は仲が良かったらしい。
 話がちょっとさかのぼるけど、シールクーフの兄でナジュムッディーン=アイユーブっていう武将がいる。彼は昔敵だったザンギーを助けたことがあって、間違ってシールクーフが、ある女性の為にキリスト教徒を殺して失脚した時に、その縁でザンギーを頼ったんだ。で、一家共々ザンギーに仕えて、今はヌールッディーンの下にいる、と。
 んでもって、見事に十字軍を追い出したシールクーフは、宰相についてくれと頼まれて、そのままエジプトの宰相の座に納まる。でも、極度のデブだったシールクーフはわずかに二ヶ月の後、食べ過ぎが原因で死んでしまう。

 エジプトに一緒についていっていたシールクーフの甥が新たに宰相につく。彼はまだ30代始めの若造だった。エジプトのお偉いさん達は、こういう若造なら簡単に操れると思ったらしいが、しかし彼は恐るべき政治手腕でファーティマ朝を掌握、ファーティマ朝最後のカリフが死に、彼は名実ともにエジプトの支配者になる。
 で、仰天したのがシリアにいたヌールッディーン
 自分の部下だったはずの男が、いつのまにやらエジプトの支配者になっとる。
 しかも呼び出しても親父が危篤とかで顔を出さん。
 あわやエジプトとシリアの衝突か、と思われた時にヌールッディーンが急死して、エジプトとシリアは統一されます。
 この「シールクーフの甥」こそが、西洋からサラディンの名で知られるサラーフッディーン・ユースフ・イブン=アイユーブ。つまり、アイユーブの息子ユースフ、字をサラーフッディーンすなわち信仰の救い、なのでした。

 彼はその私欲のなさ、寛容さ、優しさで今でも知られる数少ない君主の一人でした。実は、ヌールッディーンがあーだこーだ言ってくる間無視していたのは、ファーティマ朝のカリフとの友情を重んじてのことだったのだ。結果的に、カリフはサラディンの意向によって自分の王朝が滅んだことを知らずに死んでゆく。
 また、ある日、サラディンが風呂に入っていて部下の一人が間違って彼に冷水をぶっかけてしまった時、彼は「私を凍死させたいのなら先に一言そう断って欲しいものだな」と言って笑っただけだったという。
 そして、これは少し後の話だが、サラディンに目を掛けられ、イスラム側の騎士にならないかと誘われたあるキリスト教徒はその話を断った後こう語る「かの敵将、キリスト教徒なりせば!」

 さて、場所は変わってサラディンがエジプトとシリアを統一したころのイェルサレム王国
 ボードワン四世という王は、賢明にもイスラムと争おうとせず、休戦協定をサラディンと結んでいました。ちなみにこの王さん、500騎の騎士で二万のサラディン軍に勝ったことがあるらしい。ただ、彼はハンセン病を発病してて、この時は既に失明していました
 で、彼を助けているのがトリポリ伯レイモン三世、イスラム側の歴史家にも「当時のフランクの中にあっては、トリポリの領主でサンジルの子孫、レイモン・イブン=レイモン・アル=サンジーリほど勇敢かつ賢明な人物はいなかった」と言われています。前に出てきたレイモンとは関係ない人ね。彼はヌールッディーンの軍と戦ったこともあったり、イスラムの本をよく読んだりしていてイスラムについて理解の深い人だった。
 しかしそんな彼らの努力を無駄にしたのがカラクの領主、ルノー・ド・シャティヨン。強盗騎士としてキリスト教徒からもムスリムからも嫌われていた男で、ムスリムの商人達を襲ったりした。彼はサラディンと結んだ誓約を何度も破っていて、ついにはサラディンの妹を殺害、そして挙げ句の果てにイスラム第一の聖地、メッカを狙う。
 ついにサラディンは立ち上がることを決意した。恐らく、穏和な彼が自ら人を殺すと誓った唯一の相手であったかもしれない。
 一方のイェルサレム王国でも、ボードワンが死んで、ギー・ド・リュニジャンという名前の無能でもないけどかといってあんまり使えるわけでもない男があたらしくイェルサレム王になると、ルノー達の主戦派が多数派になってしまう。

 そしてついにサラディンは立つ。1187年、テベリアという都市をサラディンは包囲した、この町にはレイモン三世の嫁さんがいた。ここを落とすのは簡単だったんだけども、サラディンは徐々に圧力を強めるだけで、一気に攻め落とそうとしない。
 イェルサレム王国の主戦派は、さっさと出撃して城を取られるのを阻止すべしと言う。
 しかしレイモンは、サラディンの人柄を知っているので、妻が捕らえられても身代金を払えば返してもらえるだろうし、何よりまぁ、タンネンベルクの話じゃないけども、戦争の季節は秋には終わるから、今強大な兵力を持っているサラディン軍を相手にしなくても城を取り返すこともできるだろう、と言った。
 しかし主戦派は、レイモンが異教徒との友情からそんなことを言っているのだろう、と彼をなじって、強盗騎士ルノーは量より質である、と言って出撃を決定してしまった。
 これこそが、サラディンの策略だった。

 ここで両軍の全面衝突、これをヒッティーンの戦いと言う。
 高いところに陣を張れば有利と考えたイェルサレム王国軍は、丘に登るが、しかし時期は真夏、しかも、これを見越したサラディンは水場を全て押さえていた。結局、ヒッティーンの戦いはイスラム軍の勝利に終わる。
 レイモンは活路を切り開こうと自ら突撃を駆けて逃亡を図る。彼と顔見知りのサラディンの部下達が、彼の逃亡に目を瞑ったから、レイモンはほうほうのていでなんとかトリポリまでたどりつくことができた。
 で、レイモン以外に生き残ったのはバリアン・ド・イベリンという騎士、そして他ごくわずかの者達だけだった。捕虜となり、殺されるのではないかと震えているイェルサレム王に対して、サラディンは冷たい氷水を渡してこう言う「王に王を裁く法無し」。事実、強盗騎士ルノー・ド・シャティヨンはサラディン自らの手によって処刑されたが、後日、イェルサレム王は解放される。

 この後、電撃的と言っても過言ではない早さでパレスチナ地方の各都市をサラディンの軍は開放していく。サラディンは兵士と民衆の安全を保証し、都市の住民達はサラディンが約束を守る男であることを知っていたため、ほとんどの都市は無条件降伏した。
 ただ唯一、港町のティールだけは城壁が厚く、城攻めが長引くと考えたサラディンは軍を退いた。これが後々の伏線となる。

 さて、ほとんどの兵が出払ったイェルサレム、しかし、一人の男が帰ってきた。
 ヒッティーンで生き残ったバリアン・ド・イベリンその人だ。
 あの映画は大分脚色してあるけど、キングダム・オブ・ヘブンの主人公のモデルになった人ね。
 彼は妻がイェルサレムに残っているので、わざわざサラディンに妻を探しに行ってもいいかと尋ね、サラディンは武器を持たないことと、聖地では一晩だけしか過ごさないことを条件にそれを許可した。これだけでもびっくりなんだが、話はこれでは終わらない。
 いざバリアンがイェルサレムに帰ってみると、騎士が出払ったイェルサレムには指揮を執る者がいない、ここに残って防衛の指揮を執ってくれと懇願されてしまう。しかし彼は騎士道に則って信義を重んじた。サラディンとの誓約を違えることは出来ない。
 彼はどうしたか?何とサラディンの前に出頭してどうすべきかを尋ねた。普通ならその場で斬り殺されていてもおかしくはない。
 しかしサラディンはそれを認めた。
 「もしお前の義務が聖地に残って武器を取れと命ずるならそうするがよい」と、サラディンはそう言った。これも、サラディンがヨーロッパで騎士道の模範として称えられる一つの要因だ。サラディンは信義を重んじる人々に対しては、それがどのように手強い敵であろうと何も拒まなかった。結果的にイェルサレム防衛で多忙になったバリアンの代わりに、バリアンの妻を安全なところまで避難させることさえした。

 実際の所、始まってみると確かにバリアンの指揮する民衆達はサラディンの攻撃によく耐えた。しかし、いくらイェルサレムの城壁に依ろうとも、数の差は時間と共に存在感を増す。降伏やむなし、そう判断したバリアンは再びサラディンの前に現れる。
 しかしサラディンは、妥協を示さなかった。実は、戦いが始まる前にサラディンは、都を戦闘無しに引き渡せば、民衆と兵士達の安全は保証するし、キリスト教にとって聖なるものは破壊しないし、巡礼の安全を約束すると言っていたのだが、一部の人々によってその提案ははねつけられていたのだ。
 一度最良の降伏条件を示したのに、今更安全を求めるのか?とサラディンはバリアンに聞く。
 しかしてバリアンはこう言う「民衆は、あなたがこれまでそうしてきたように、あなたが自分たちの命を助けてくれるものだと信じている。しかし、我々を殺すというのなら、聖地には何も残さず破壊し、最後の一人まで戦うだろう」
 正直サラディンはこの程度の脅しをどうこうと思う男ではなかったが、彼はバリアンの熱意に打たれた。
 サラディンは、身代金の要求と引き替えに民衆と兵士達の安全を保証する。バリアンは貧しい者達は金が払えないから金額を大目に見てくれと言うと、サラディンはあっさりとそれを承諾した。
 まぁ、この時代、最後に物を言うのは信仰心だが、最初から信仰心に物を言わせるのは愚か者だ、ってのは俺の持論なんだけど、最後に信仰心にものを言わせたのがバリアンで、最初に信仰心にものを言わせちゃったのがサラディンの最初の提案を蹴った人だと俺は思ってる。

 こうして聖地が実に88年振りにムスリムの手に戻った。この報にイスラム世界は沸き立つ。サラディンは、一切の殺戮と略奪を禁止し、キリスト教にとって大切な聖なる墓を壊してしまえと主張する一部の部下達の意見を切って捨てた。彼はやっぱりすごい人だと思う。
 聖地奪還の一週間後の金曜日、礼拝の日、このような文が読み上げられた。
「イスラムにこの勝利を与えたまい、一世紀に渡る破滅の後、この町を信徒に戻したもうた神に栄光あれ。回復成就のため、神が選びたいもうた軍隊に名誉を。そしてサラーフッディーン・ユースフ、アイユーブの息子、この民族に、さげすまれていた威厳を回復したなんじに救いあれ!」

 さて、ここに至ってヨーロッパもほぼ一世紀振りに本腰を入れだす。第三回十字軍、別名帝王十字軍の結成である。
 剛胆無比を謳われ、未だイギリス最強の王と呼ばれる、獅子心王、すなわちライオンハーティド、リチャード一世!
 欧州最強のドイツ軍を率いる神聖ローマ皇帝、赤髭王、すなわちバルバロッサ、フリードリヒ一世!
 全ヨーロッパを視野に入れて陰謀を巡らす尊厳王、すなわちオーギュスト、フィリップ二世!
 この主要三国の君主に加えて、
 バーンベルク家オーストリアの有徳公、オーストリア公レオポルト五世!
 中世イタリア史を通じて最強の指揮官の一人、モンテフェラート侯コンラード!
 彼らのうち、フリードリヒは溺死してしまい、フィリップ二世とレオポルト五世はアッコンを占領した後、リチャードと仲たがいして返ってしまう。
 しかし、フリードリヒには不死伝説がまことしやかに伝えられている。それだけ有能な皇帝だったということであって、溺死に関しても不明な点があり、あるいは政治に優秀なサラディンの関与があったのではないかとも言われている。
 一方のフィリップ二世とレオポルト五世はヨーロッパに戻った後に色々と暗躍するんだけども、まぁ、それは別の機会に。

 とりあえず切りがいいから、ここで前半は終了
 後半はまた明日明後日にでも

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