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(`・┏┓・)ノ新作上げたよ&録音環境紹介&前の一人放送の台本とか


新しいブログになってからそれっぽい記事を書いていなかったのでw
1868歌わせていただきました!
うん、この低さならなんとかなるかと思ったんだ……しかし結果はごらんの通り\(・┏┓・)/
色々ごまかすために語り成分を無理矢理添加してみました(プラスになったのかマイナスになったのかは神のみぞ知る……w;

で、何か今更ですけど録音環境

マイク        :スカイプ用のヘッドセット(\780)
インターフェース :無し
編集ソフト     :Audacity

以上wwwww
機材よりも先に歌唱力の改善だと思ってますので、いい機材を買うのはもっと先になりそうですw
まぁ結局、これだけあればそれなりの歌ってみた動画は作れるので、歌ってみた始めたい方の参考になれば……なるのだろうか

以下、ちょっと前の一人放送(第五回十字軍)の台本と、豆知識(@フランク王国)


フランク王国あれこれ

特に力を入れて語ることはないのでgdgdと本当に豆知識だけ羅列してるので読みたいところだけどうぞw

■フランク王国とは何ぞや?
 ゲルマン系のフランク族の国で、現在のドイツ・イタリア・フランス・スペイン東部を含めた統一ヨーロッパの原点。EUは「フランク王国の再現」と言われたりもする。ゲルマンの侵入による混乱期の終結を体現する国だったらしい。フランク王国の登場でやっと西ヨーロッパにビザンツ帝国(東ローマ、ギリシャのかーちゃん)に対抗できる政権ができたことになる。

■カール大帝
 フランク王。ドイツやフランスで偉大な王、皇帝として称えられてるけども実は今のベルギー出身(ちなみにクローヴィスも出身はベルギー。ラテンとゲルマンの境界線であるベルギーについてはまた今度語るかも)。800年に西ローマ皇帝として戴冠したことはよくテストに出るw
 イスラム軍とよく戦ったが、一方でイスラムのアッバース朝カリフ、ハールーン=アッラシードとの交流もあり、絹や象なんかをもらったりした。
 ちなみに彼の遺体が調査を受けたとき、遺体が全く痛んでおらず、それは彼が持っていた護符(一般に、シャルルマーニュの護符と呼ばれる)の霊験のお陰だと言われたのだが、実はその護符はアッラシードからもらったものだったりする。
 カロリング=ルネサンスの立役者でもある。
 文字が苦手だったので黒板を持ち歩いて練習していたという話なんかもあったり。
 後、水泳が得意で彼に泳いで追いつける臣下はいなかったとかw

■ローランの歌
 中世騎士物語の典型。カール大帝の部下、ローランという騎士のお話。ちなみにイスラム贔屓の俺はあまり好きではないw
 が、面白いので読んでみても損はないかも。
 よくファンタジーに出てくるデュランダルっていう剣があるけど、それはこのローランの剣がモデル。


以下一人放送の台本
何か今読むとすんげえ臭いこと書いてるなw;
=======================================

 聖地イェルサレム。ユダヤ、キリスト、イスラム、三つの宗教の聖地が重なり合うこの土地は、古くから争いの場となってきた。中世、騎士の時代、キリスト教徒達はイェルサレムを奪回すべく十字軍を起こす。血で血を争う戦いが続き、ついに1192年、9月2日イングランド国王リチャード一世と、エジプトのスルタン、サラーフ=アッディーン・ユースフ・イブン=アイユーブ、通称サラディンとの間で協定が結ばれた。しかしこれは仮初めの停戦、戦いの末の和議に過ぎなかった


 今回は、第三回十字軍に参加した神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世の孫、フリードリヒ二世と、サラディンの甥、アル=カーミル、そしてプロイセンの祖、ドイツ騎士団の第四代総長ヘルマン・フォン・ザルツァの話をしたい。


 まずはプロイセンとヘルマンについて簡単に説明しておこう。
 第三回十字軍でフリードリヒは溺死したが、リチャード獅子心王に付き従い、イスラム勢力と戦ったドイツ人達がいた。彼らがドイツ騎士団だ。結局、聖地イェルサレムを奪回することは出来なかったから、ドイツ騎士団は中東での活動の縮小を余儀なくされる。第三回十字軍の撤退後もイスラム勢力と戦い続けた彼らだったが、ドイツ人の騎士達は、戦いによって聖地イェルサレムの土を踏むことは二度と無かった。

 キタユメさん本家の漫画でもあるとおり、1211年にヘルマンはクマン族撃退の為にハンガリーに呼ばれる。自分たちの国が欲しかった彼らは、プルツェンラントをハンガリーから切り離して、教皇のお墨付きをもらって俺の土地宣言するんだが、怒ったハンガリーに追い出される。流浪の騎士団と呼ばれる所以だ。で、今度は彼らはポーランドに招かれた。1225年のことだ。今度はケーニヒスベルクに留まることを許された。この時、勅書を出して、ここが彼らの土地であると認めたのが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世だった。

 以降、ドイツ騎士団はケーニヒスベルクの統治をしつつ、神聖ローマ帝国の傭兵業もこなすようになる。フリードリヒ二世とヘルマンは、良き主従であり、良き友人だったようだ。


 さて、ここでそのフリードリヒ二世について。
 フリードリヒ二世は、皇帝の跡継ぎ争いに担ぎ出されて、結果的に皇帝になるんだが、皇帝の冠を戴冠するときに、教皇に十字軍を行うということを誓った。
 ヨーロッパ各地から十字軍に参加する兵士達が集まってくる。しかし船出の直後、船内でチフスが蔓延してフリードリヒは引き返す。

 一方のエジプトの君主アル=カーミル。
 結果的に帰ってくれたからよかったものの、ヨーロッパ最強の神聖ローマ帝国軍が攻めてくるとあれば、うかうかはしていられない。そこでカーミルは帝国の内情を探る為にフリードリヒに使者を送った。彼の居城はシチリアにあった。そこで使者は驚くべき物を目にする。
 キリスト教の教会に描かれたイスラム教徒の像、異教徒の混じり合う町、そして何より、フリードリヒが羽織るアラビア語の刺繍の入ったマント。
 フリードリヒはアラビア語で使者を接待し、使者はフリードリヒが開明的であることに感嘆した。

 実はフリードリヒが生まれたシチリア島は、イスラム、ビザンツ、ノルマンの文化が混じり合い、特殊な文化圏を形成していた。フリードリヒはアラビア語にも堪能で、カーミルと彼は十字軍に関する話題を避けて、自然科学に関する話題等を文通していたそうだ。内容としては論文レベルのものだったらしい。
 フリードリヒがアフリカの動物に興味を持っていたので、カーミルは彼にらくだや象を贈ったりしたのだとか。フリードリヒがカーミルから贈られた物の中で一番大切にしていたのは、天体観測儀だったらしい。息子の次に大切な物だと、彼は語った。

 宗教、立場の違いを超えて、彼らもまた良き友人だった。
 元から十字軍に乗り気でなかったフリードリヒはカーミルと共に何とか戦争を回避できぬものかと考えていただろう。
 しかし、教皇はフリードリヒに迫る。一度出かけておめおめと返ってきたばかりか、もうその腰を上げようとはしない。奴は神との誓いを破るつもりか、ならば破門だ。
 当時、破門はキリスト教のあまねく広がったヨーロッパで社会的抹殺を意味した。

 ここでカーミルはフリードリヒに驚くべき提案をした。「親愛なる友よ、貴方にならイェルサレムを譲ろう」と。
 もちろん、彼に打算が無かった訳ではない
 当時、エジプトを治めているカーミルと、シリアを治めていたカーミルの弟は仲たがいしており、フリードリヒがシリアとエジプトの間のイェルサレムを治めてくれることによって、緩衝帯が出来、また長期的に見れば、当時破竹の勢いで進撃していたモンゴルに対しても有効な対抗手段となる。しかしそうであったとしても、フリードリヒとカーミルの友情なくしては成り立たない提案だっただろう。

 しかしこの時、カーミルの弟が急死し、フリードリヒに緩衝帯を作ってもらう必要がなくなってしまう。つまり、緩衝帯の為にフリードリヒにイェルサレムを譲渡するという理屈は成立しなくなる。
 当然、イェルサレムを手放せば、サラディンと多くの兵士達が命を賭けて守った聖地を無償で手放すとは何事か、と内外のムスリムから非難が殺到するのは必至。

 しかしフリードリヒは既に軍勢を引き連れて地中海東岸に上陸していた。
 状況を素早く察知したフリードリヒはカーミルに率直な思いを打ち明ける「伏して願おう、我に聖地を与えたまえ。しからずんば、私は国に戻ることがかなわぬ。キリスト教徒達に対する面目が立たないのだ」
 カーミルは表面上はこう答える。「イェルサレムを引き渡すつもりはない。ムスリム達に配慮せねばならぬ」

 双方、戦闘もやむなしと判断したであろう、と、周囲の人間は考えたに違いない。実際、二人はそれぞれ戦闘の準備を始めた。

が、しかし。

 カーミルとフリードリヒは、彼らの間の使者を通じて双方が双方の意図を理解していた。
 彼らは全面対決のそぶりを見せ、戦闘した、という言質を取れる程度に戦闘して兵を退く。血は一滴も流れなかった。つまり、カーミルにとっても、欧州最強の神聖ローマ帝国軍と戦ってやむなく聖地を手放したという言い訳がたつのだ。


 五ヶ月に渡る協議の後、結果的に聖地はフリードリヒの統治のもとにおかれることとなる。しかしムスリム達は以前通り、神殿の丘での祈りを保障され、キリスト教徒による神殿の丘の侵害も禁止された
 そして何より、驚くべきは、皇帝は、カーミルに敵対する勢力に、食料や軍備を与えず、キリスト教徒が平和条約に反する行動を取る場合、皇帝はカーミルを守る、という条文が条約に含まれていたことだ。教皇を敵に回すことがあれば、フリードリヒは教皇への忠誠よりもカーミルとの友情を重んじると宣誓したのだ。

 カーミルは聖地にフリードリヒを案内する。
 カーミルの部下は、キリスト教徒であるフリードリヒに配慮してイスラムの祈りの時間の歌を止めさせたのだが、祈りの歌が聞こえなかったことを不思議に思ったフリードリヒがそのことについて尋ね、カーミルの部下の配慮を知ると、彼は「私は聖地でイスラム教徒の祈りの歌を聴くのを楽しみにしていたのだ」と言ったという。

 そして聖地に祈りの時間の歌、アザーンが響く


 彼はイェルサレムの王として戴冠する……が、破門されていた彼に付き従って、戴冠式に出席した聖地騎士団はドイツ騎士団のみだった。ヘルマン・フォン・ザルツァは、教皇に睨まれるという危険を冒してでも、フリードリヒとの友情を優先した。
 「戦」によって再び聖地の土を踏むことがかなわなかったドイツ騎士団の騎士達は、フリードリヒとカーミルという偉大な二人の指導者の「話し合い」によって再び聖地の土を踏むことになるのだ。
 ヘルマンは、フリードリヒが書いたこのような内容の文章を読み上げた。「私は、教皇が私を破門し、非難に満ちた手紙をよこしたことについて、教皇を許す。私は、神、教会、教皇の名誉になることならいかなることでもなす所存だ。私の真摯な平和への愛を示すために」

 ヘルマンの覚悟と、フリードリヒとカーミルの友情が本物であったことが次の事からも分かる。
 ヘルマン率いるドイツ騎士団は聖地奪還のために共に戦った他の騎士団を敵に回してまで、皇帝に付き従う覚悟を見せていた。実際、この時、フリードリヒと、そしてドイツ騎士団と明確に対立し教皇側に立ったテンプル騎士団は、カーミルにこっそりとこのような手紙を送った「皇帝フリードリヒはキリストの洗礼の地、ヨルダンに僅かな部下だけを連れて詣でる予定であるらしい。その時なら簡単にフリードリヒを殺す、あるいは捕らえることができるだろう」
 しかしカーミルは、そのような卑怯な手段を使って友を陥れようなどとはさらさら考えておらず、逆にこの手紙をフリードリヒに渡し、テンプル騎士団のたくらみをフリードリヒに知らせたのだ。

 この後、フリードリヒとカーミルはそれぞれキリスト教世界、イスラム世界からの非難に晒される。フリードリヒは「武力に依らない聖地の征服とは何事か」カーミルは「サラディンが守った聖地を手放すとは何事か」
 二人は周囲から理解されない思いを、手紙にしたためていたこの文通は、九年後、カーミルが亡くなるまで続く。
 カーミルの訃報を聞いたとき、フリードリヒは大いに嘆き涙したという。さらにその一年後、今度はキリスト教世界でのフリードリヒの最大の友だったヘルマンが亡くなる
 そしてイェルサレムは新たなイスラム勢力に再び征服されてしまう。

 ヘルマンが亡くなって11年後、フリードリヒは、破門を解かれないまま、故郷シチリアのパレルモに眠ることとなった。

 その反動、裏切られたという思いがあったのか否か、ドイツ騎士団は、北方において他の聖地騎士団に比べても凄惨としか言いようのない征服戦争を異教徒に対して展開する。
 フリードリヒとカーミルの異教との融和の精神は、失われたかに見えた。

 しかしモンゴルとのワールシュタットの戦い、ポーランドとのタンネンベルクの戦いを受け、ドイツ騎士団は再び敗北を知り、戦のみでは世界は変わらないことを思い出す




 時は流れ、ドイツ騎士団の後身、プロイセン王国、かつての偉大な皇帝と同じ名を持つ大王、フリードリヒ二世の時代。プロイセン王国は、カトリック、プロテスタント、そしてユダヤ人やムスリムまでもが集う理性の国となっていた。

 そして19世紀、プロイセンがいよいよ大国となろうとするころ、皇帝フリードリヒ二世の亡骸が、学術調査を受けた。孤独なまま亡くなったと思われていたフリードリヒの袖にはしかし、アラビア語で次のような刺繍がされていたという。

「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」

 彼は、最後までカーミルとの友情を貫いて死んでいた。

 理性の国、プロイセン王国の空、その上の天国でなら、ムスリムもキリスト教徒も関係なく、フリードリヒとカーミル、そしてヘルマンは笑い合っているものと信じたい。
 今のパレスチナ、イスラエルの問題、あるいは、キリスト教とイスラムの対立の問題に関わる全ての人々が、彼らに学んでくれることを願ってやまない。

 あなた方の上に平安を、斯くあれかし。アッサラームアライクム、アーメン。ありがとうございました。

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